誰もが知ってる大ヒット曲の誰も知らない秘密SP

おじいちゃんのおかげで200万枚売り上げたメガヒット曲とは!?


高知県で暮らす一人の少女。
生まれてすぐに両親が離婚。
母方の祖父母が引き取ることになり、祖父母は引き取った孫娘に我が子のように愛情を注いだ。
彼女は祖父母を「お父さん」「お母さん」と呼んだ。
少女にとっては両親そのものだった。
そんな彼女は小さい頃からピアノを習い始め、以来、ピアノを弾くことに夢中になった。
将来の夢はクラシックのピアニストになる事。


祖父母の愛に育まれ、彼女は高校2年生になった。
そんな夏のある日、たまたまラジオから流れてきたドリームズ・カム・トゥルーの曲に衝撃を受けた。
これまでクラシック以外の音楽には興味がなく、人前で歌うどころか、人前に出る事すら苦手だった彼女が…この日をきっかけに歌手を目指すことを決意。
そして…ドリカムなどの曲を歌ったデモテープを作成し、いくつかの東京の音楽事務所に送った。


すると半年後…歌声を気に入ってくれた音楽事務所から高校卒業後に東京に来ないかと誘われたのだ。
ところが、祖父は猛反対!
実は祖父には、彼女に音大に進み教師になってもらいたいという思いがあった。
さらに可愛い孫娘が田舎を離れ、一人で上京することへの不安もあった。
だが彼女は祖父の猛反対を押し切り、家出同然で上京した。


東京で彼女は音楽事務所に所属しながら、ボイストレーニングと、事務や引っ越しのアルバイトに明け暮れる日々を過ごしていた。
祖父とは一切連絡を取らないまま、上京から半年が過ぎたある日、事務所から歌を作ってみたらと勧められた。
だが、彼女は、これまで曲を作った経験が全くなかった。
そこで、頭に浮かんだ鼻歌をカセットに録音し、それをパズルのように繋げて曲を作ることにした。


そんな時、地元高知の友人が電話で仕事や家族、恋人の事など悩みを打ち明けてきた。
電話が終わると、友人の為に何か自分に出来ることがないか考えた。
そして、悩みを抱えている故郷の友人を励ます一曲を作ることにしたのだ。
だが、曲作りは思うようには進まなかった。


それから数週間後…彼女の元に上京を反対していた祖父から手紙が届いた。
手紙には、夢を叶えるために反対を押し切って上京した、孫娘を想う祖父の気持ちが綴られていた。
そして、手紙の最後には…「涙が多いのが人生だよ」と書かれていた。
険しい道を進む孫娘を励ます言葉が綴られていた。
この祖父の言葉は、彼女の心にずしりと響いた。


さらに、祖父の言葉は曲作りに大きなヒントを与えた。
この言葉がきっかけで、あるフレーズが浮かび、制作中だった友人を励ます曲の歌詞に取り入れることにしたのだ。
その後も、祖父の言葉は、彼女の心の支えとなった。
辛いことがあっても歌手デビューという夢を諦めず、曲作りに励んだ。
そして、作った曲の数は40曲にもなっていた。


上京してから2年後、努力はついに報われることになった。
なんと大手レコード会社からCMのタイアップ曲で、デビューが決まったのだ!
ところが…CM曲の話は寸前になって他の大物男性歌手の曲に変更になり、彼女のデビューは延期になってしまった。
それでも彼女は、落ち込んだり、焦ったりすることは一切なかった。
祖父の言葉を支えに、彼女はデビュー出来る日を信じて前だけを見ていた。


そして上京から3年後、ついにその日がやってきた。
彼女の曲がドラマの主題歌に決まり、CDデビューが決定したのだ!
しかもそれは、祖父の手紙の言葉がきっかけで生まれた友人を励ますために作った、あの曲だった。


CD売り上げ、200万枚の大ヒット!
NHK紅白歌合戦にも出場し、春の選抜高校野球の入場行進曲になった誰もが知る名曲、その曲こそ!
そう!岡本真夜さんの不朽の名曲、『TOMORROW』である。
祖父の言葉をヒントに作った曲で、彼女はついに念願のデビューを果たしたのだ!
ドラマ『セカンド・チャンス』の主題歌をこの曲に決めたのは、脚本家だった。
前向きに生きるシングルマザーとシングルファザーの2人が出会い、困難を乗り越えて結婚するまでを描いたホームドラマ。
TOMORROWの歌い出しの歌詞が、前向きなドラマのコンセプトとぴったり合うと、主題歌に大抜擢されたのだ。
さらに、このTOMORROWが発売されたのは、阪神淡路大震災直後。
この歌の「涙の数だけ強くなれる」という歌詞は、日本中に勇気と希望を与えた。
そして、今なお、応援ソングとして親しまれている。


岡本真夜さんは、この曲について、こう話してくれた。
「涙が多いのが人生だよと…小さい頃から、祖父が本当に苦労してきていたのを間近で見ていたので、この言葉を読んだ時はすごく自分の中で納得した。ある意味、覚悟をその時にもらえた。だからこそ強くなれたような気がしています。本当に祖父の手紙のおかげでTOMORROWという楽曲が生まれたんだろうなと思っているので、本当に感謝しています。」


世界的スーパースターの大ピンチを救った意外すぎる人物とは!?


誰もが一度は聴いた事のある、数々の世界的ヒット曲を生み出したスーパースター、スティービー・ワンダー。
生まれてすぐ、両目の視力を失うという視覚障害を抱えながらも、自ら作詞作曲もこなすシンガーとして、次々とヒットナンバーをリリース。
そんな、スティービー・ワンダーに、かつて、全ての名声を失う大ピンチが訪れたことがあった。
事の始まりは…1984年、映画の主題歌としてリリースされた「I Just Called to Say I Love You」。
全米1位、アカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞にも輝いたこの曲だが、リリースの翌年…なんと、盗作であると訴えられたのだ!


訴えを起こしたのは、かつて共に音楽を制作した事もある、2人のシンガーソングライターだった。
彼らの主張によると、それは曲の発売から遡ること7年。
スティービーに2人が制作した曲を聴かせた事があったという。
その曲と後にスティービーが発表した「I Just Called to Say I Love You」のサビ部分がそっくりだと言うのだ。


スティービーと原告側、それぞれのサビ部分の歌詞を見比べてみると…確かにタイトルにもなっている部分の歌詞が同じ。
また原告側からは、制作時に録音されたというテープまで証拠として提出された。


その一方でスティービー側の主張は…この曲のメロディが浮かんだのは、2人が曲を聴かせたと主張している年よりもさらに1年前、車で移動中の時だったという。
だが、目の見えないスティービーには、その曲を譜面に起こしたりすることは出来ないため、証拠を提出することができなかった。
原告側の証拠はスティーヴィーが楽曲をリリースする7年前、1977年に録音したデモテープ。
このままでは裁判に負けてしまう。
もし敗訴すれば、これまで築き上げてきたもの名声を全て失うだけでなく、多くのファンを悲しませることになってしまう。


そこで、スティービーはある人物に電話をかけた。
その相手は…なんと、日本人だった!
兄弟で結成されたポップデュオ・ブレッド&バターの岩沢幸矢(さつや)と、二弓(ふゆみ)だ!!
彼らは、同じ湘南出身の人気バンド・サチモスもリスペクトを公言するなど、若い世代からも尊敬を集めている。
森山良子、BEGIN、など、多くの有名アーティストにも楽曲を提供、その活動は多岐に渡っている。
果たして、スティービーが幸矢に電話をしたわけとは?
そこには、あるアンビリバボーな事実が!


それは、ブレッド&バターが活動を一時休止していた時のこと。
幸矢は当時、数年前から友人関係になっていた、スティービーの個人スタジオがあるロサンゼルスに滞在していた。
その時、スティービーにスタジオに呼ばれて、聴かされた曲こそが「I Just Called to Say I Love You」だった。
そして、その曲は彼らのために作った曲だと言う。
そう、スティービーは、車の中で閃いた曲をフルコーラス完成させ、幸矢にサプライズでプレゼントしたのだ!


こうして幸矢は、スティービーからの曲を手に帰国。
その後、サビ以外はできていなかった詞を、親交のある松任谷由実、編曲をYMOのーダーでもあった細野晴臣に依頼。
ブレッド&バターの復活シングルとしてリリースする計画だったのだが…その後、スティービーは映画の主題歌を依頼され、新曲を制作。
だが、映画関係者に納得してもらえずにいた。
困った彼が思い出したのが…幸矢にプレゼントした、あの曲だった。
それを映画関係者に聴かせたところ、なんと、映画の主題歌にしたいという話になったのだ。


こうして、ブレッド&バターから返却されたこの曲は、1984年にリリースされ、世界的な大ヒットナンバーとなったが、翌年、それが盗作だとして、訴訟を起こされたのだった。
そして…実は、スティービーに新曲が出来たから来て欲しいと言われたとき、幸矢はラジカセを持参し、スティービーが演奏したあの曲をテープに録音していたのだ!


実は、このテープが録音されたのは、原告側がスティービーに曲を聴かせたと主張する1977年より、1年早い1976年だった!
幸矢がこのテープをすぐにスティービーに送ると、テープは証拠として裁判に提出された。
これにより、見事スティービーは勝訴!
ちなみに原告側には、特に悪意があったわけではなく、偶然、サビ部分が似てしまっただけとの判断が下った。


しかし、物語はこれで終わりではない!
テープを返却した年、スティービーは来日公演のため日本へ。
その時…日本のスタジオで、ある新曲を完成させていた。
曲のタイトルは…『Remember My Love』。
実はこれ、「I Just Called to Say I Love You」の代わりにと、ブレッド&バターのために作られた曲だったのだ!


幸矢さんさんは、この曲について、こう話してくれた。
「『この曲は君たちにあげる曲だ』と言われたんです。その時は、また驚いちゃったんですよね。『Remember My Love』、『僕の友情を覚えてくれているか』、そういう感じで書いてくれた曲だったので、とても嬉しかったです。」


スティービー・ワンダーがブレッド&バターのために作った、「I Just Called to Say I Love You」と「Remember My Love」。
2人にとって、この2曲はどんな存在なのだろうか?
二弓さん「僕たちの遺産だなと。スティービーからもらった。これは一生大事に子供・孫の代まで大事に遺産になってくれればいいなと思います。」
幸矢さん「いつまでも残る普遍的な音楽だと思う。こういう時代にもスティービーの音楽は受け入れられるというか、決して希望を捨てないでくれ、というテーマがある気がしますね。」


スティービー・ワンダーは、昨年10月にも2つの新曲をリリースするなど、今も世界中に愛や希望に満ちた歌を届け続けている。
そして、今年でデビュー52年となるブレッド&バターも、ライブを中心に今なお勢力的に活動中だ。
あの時、一旦はブレッド&バターによるリリースが中止となった、「I Just Called to Say I Love You」。
実は「特別な気持ちで」というタイトルで後に発表されている。
そして、2人がもらった時点ではサビ部分しか歌詞は存在しなかったため、松任谷由実さんが書いた歌詞は、翻訳ではなく完全なオリジナルなのだ。


日本中が知る国民的ヒット曲の誕生に秘められたミステリー


今なお、日本だけでなく世界中で愛される、坂本九さんの名曲「上を向いて歩こう」。
ラジオの人気パーソナリティーでもあった作詞家の永六輔さんが歌詞を、日本のトップジャズピアニストだった中村八大さんが作曲を手がけたこの曲は、発売開始から驚異的なヒットを記録。
その人気は世界にも広がり、米国ビルボードチャート1位を獲得。
作詞の永六輔、作曲の中村八大、歌う坂本九の3人は「689トリオ」と呼ばれ、ヒットメーカーの象徴にもなりました。


しかし、この曲のヒットの3年後に発売されたあるレコードに、驚くべきミステリーがあることをご存知ですか?
その曲とは…「幸せなら手をたたこう」。
こちらも誰もが知る坂本九さんの大ヒット曲。
でも実はこの曲が発売された時、なんと「作詞作曲者は不詳」になっているのです!一体なぜ?


それは「上を向いて歩こう」がアメリカで大ヒットし、坂本九さんが国際的スターになった翌年のこと。
街を歩いていた九さんは、偶然、若い女性たちが楽しそうに口ずさんでいる歌声を耳にしたのです。
九さんは女性たちに誰の曲か質問したのだが…彼女たちも誰の曲か知らなかった。
だが、数年前から歌声喫茶で流行っているという。
歌声喫茶とは、当時若者の間で大流行していた、客全員が合唱する喫茶店のこと。


九さんは、その場で女性たちに何度か歌ってもらい曲を覚えると、レコード会社に持ち込みディレクターに聞いてもらうことに。
ディレクターも気に入ったようだった。
ところが、その後も歌声喫茶に聞き込みするなどして、調べてみたものの…作者は分からずじまい。
それでも、九さんのどうしてもこの歌を歌いたいという強い思いを受け、レコード会社は彼の歌を元に作曲家のいずみたくさんに編曲を依頼。
作詞作曲者不詳のままレコードをリリースしたのです。


歌は空前の大ヒットとなったものの…依然として、作者は分からないまま。
しかし、その数ヶ月後のこと。
この日、とある人物が九さんを訪ねてきました。
木村利人さん、当時30歳。
早稲田大学大学院で法学を学ぶ研究者だった彼こそが、「幸せなら手をたたこう」の作詞者だったのです。


木村さんは、歌を世に広めてくれた九さんに感謝していると言う。
実は、「幸せなら手をたたこう」には、彼のある切実な思いが込められていました。
1959年、当時、早稲田大学の大学院生だった木村さんは、簡易トイレを作るボランティアのため、フィリピンに2ヶ月滞在。
その時、忘れ得ぬ体験をしました。


戦時中、日本の統治下に置かれていたフィリピン。
そのこともあり、フィリピン人の中には、日本人に対して敵意を持っている人も少なくなかったといいます。
それでも、木村さんが懸命にボランティアを続けていると…いつしか、現地の若者たちが心をひらいてくれるように。
木村さんが、日本に帰る前には、小学校の子どもたちが送別会を開いてくれたそうです。
そのとき、彼らが行っていたアメリカ民謡を手を叩きながら歌う遊びが、心に残ったといいます。


帰国後…友人にその歌を披露すると、覚えやすいフレーズだったため、すぐに学内で流行。
当時、若者たちに人気だった「歌声喫茶」でも歌われるようになり、作者不詳のまま急速に広まっていき…ついに坂本九さんの耳に届くまでに。
そして…木村さんは、「自分が作った歌」を九さんが歌ってるのをラジオで偶然聞き、驚愕したのだそう。


歌詞で繰り返される「幸せ」とは、「高度経済成長による物質的な豊かさ」ではなく、戦争が終わり、平和の中で生きられることの喜びという意味だったのだ。
そして、正式な作詞者が記載された「幸せなら手をたたこう」が改めて発売に。
今や教科書に載るほどの名曲として日本中に定着、愛され続けているのです。


「チャンピオン」にはモデルが実在! その知られざる熱い生き様とは?


1970年代に絶大な人気を誇ったバンド「アリス」。
そんな彼らの最大のヒット曲といえば…「チャンピオン」。
オリコンチャート1位を獲得するなど、まさに一世を風靡したヒット曲だ。
実はこの曲には知られざる秘密がある。
曲を作ったご本人に聞いてみた。
「イメージとして、この人っていうモデルがいました。」
そう、名曲チャンピオンにはモデルが実在。
そこにはある男の壮絶な人生が秘められていた。


それは、アリスのリーダー・谷村新司が雑誌の対談をしていたときのことだった。
対談相手は、ノンフィクション作家の沢木耕太郎。
沢木は今から45年前、とあるプロボクサーの姿を描いたノンフィクション作品を発表、話題を呼んでいた。


そのボクサーとは…カシアス内藤。
アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたその少年は、高校時代から将来を嘱望される天才だった。
デビューから無敗のまま20歳で日本ミドル級王者、さらに翌年1月には東洋ミドル級王者となった。
だが世界のベルトが視界に入った矢先、まさかの敗北を喫すると、その後戦績は下降線をたどり、24歳の若さでリングから姿を消した。
谷村が沢木に会ったのは、それから数年後のことだったのだが、「いずれ、世界チャンプになると思ってたんですけどね」という谷村に対して沢木は「まだ過去形にするのは早いですよ…」と言った。


後日、谷村は沢木の取材に同行。
すると…そこには、ボロボロになりながら復帰に向けて死に物狂いで練習に取り組む、カシアス内藤の姿があった。
その姿を見た谷村は、沢木に「なんで、こんなパンチを持ってるのにチャンピオンになれない?」と聞いたところ…沢木は「カシアスは優しすぎてトドメを刺せない」という。


ボクシングを愛しながら、優しさゆえに苦悩する男。
その姿にインスピレーションを受け、一気に書き上げた曲こそが…このチャンピオンだった。
そして、カシアス自身も曲のリリースと前後するタイミングでリングに復帰。
結局チャンピオンにはなれずに引退したが、その復活劇は多くの人々を勇気づけた。


彼は現在、ジムを経営しながら、後進の育成に励んでいる。
実は長らく、この歌のモデルが自分であることを知らなかったという。
カシアス内藤はこう話してくれた。
「(ある時)沢木さんとご飯を食べに行ったんですね。カラオケ行って、『俺この歌(チャンピオンが)好きなんですよ。歌おうかな』って言ったら、『馬鹿だな これ君の歌だよ』って、その時初めて知ったんですね。」
だがその生き様は歴史に残る名曲となり、多くの人々の心に響き続けている。

Close×