実録!東京湾を襲う怪物 首都圏パニック!壊滅危機


一日 およそ500隻の船が行き交う東京湾。
日本経済の心臓部となっているこの海で…今から44年前、ちょうど11月のこの時期に、当時 日本最大級のタンカーが爆発、大炎上!
湾は火の海と化し、海上の交通は完全にマヒ!
沿岸の大都市は壊滅の危機に瀕した!
炎を吹き上げ、猛威を振るうモンスターと化した巨大タンカー。
自衛隊による武器を使用した海難事故処理!
訓練以外で魚雷を使ったのは、自衛隊史上、後にも先にもない、この時だけである。
東京湾で起こった未曾有の事故、その結末とは!?

今から44年前の11月…東京湾を航行している船から事故が発生したと緊急通報が入った。
当時、運輸省が管轄する機関であり、海の安全と治安を守る海上保安庁は、すぐに対策本部を設置。
直ちに巡視船などを現場に派遣するとともに、民間会社の船にも応援を要請した。
だが…現場に到着した者たちは、息を飲んだ!
輸入燃料を満載し、あと数時間で川崎港に着岸するところだった日本船籍の大型タンカーに…鉄鋼材を載せ、千葉県君津港から出港したばかりの外国船籍の貨物船が突っ込んだのだ!
主な原因は、貨物船の不注意とされたが、タンカーが注意を怠ったことも一因に数えられた。

大型タンカー・第十雄洋丸は、全長227m。
第二次大戦中、世界最大といわれた戦艦大和に匹敵するほどの大きさだった。
船体中央の4つのタンクにおよそ2万6千トンの液化石油ガス。
船体の前方と側面、9つのタンクには2万トンのナフサを満載していた。
実はこのナフサ、主に石油化学製品の原料として使われているガソリンのようなものなのだが、ベトナム戦争でナパーム弾に使用されたほどの爆発力と燃焼力を持つ危険物だった。
衝突直後、船体前方のナフサのタンクに亀裂が入り、衝撃で大爆発を起こした。
一方、貨物船は、飛び散ったナフサを浴び、一瞬にして猛火に包み込みこまれた。
さらに、流れ出したナフサが海面で炎上、現場は火の海となっていた!

第十雄洋丸の乗組員38名は、爆発直後に海に飛び込んだ。
その後、大半は救助されたが、5名が命を落とした。
一方、貨物船の方は消防活動の結果、鎮火状態となり、川崎沖で船体を固定することに成功。
だが、焼けただれた船内を捜索したところ…男性1名の生存が確認されたものの、他の28名は猛火に巻き込まれ命を落としていた。

民間の船も必死に消防活動に協力していたが…第十雄洋丸の火の勢いが衰える気配はなかった。
炎上している第十雄洋丸の船内には、まだ大量のナフサと液化石油ガスが残っていた。
そのため、いつ大爆発が起きてもおかしくない状況だった。
もし、新たな爆発が起こったら、消防活動に当たっている船にも被害が及ぶ危険がある…海上保安庁は消防活動を打ち切らざるを得なかった。
すでに事故直後から、炎上する第十雄洋丸の周辺海域は、航行することが出来なくなっていたが、消防活動の打ち切りによって、東京湾は事実上、閉鎖に追い込まれた。

その数時間後、さらに悪夢のような事態が発生する。
夕方になり風速5メートルをこえる風が吹きはじめたことによって、第十雄洋丸が一気に押し流されはじめたのだ!
衝突事故によって、爆発炎上した第十雄洋丸は、東京湾で猛威をふるうモンスターと化した!
第十雄洋丸は、横須賀方面に向かって時速3.7キロで流されていた。
さらに、横須賀港付近に流れ着くまで、あと2時間ほどと推測された。
横須賀港付近は浅瀬に岩礁が点在しており、岩礁に乗り上げたら、衝突の衝撃で船体に亀裂が入り、ナフサや液化石油ガスに引火する可能性があった!
迫る巨大爆弾! 沿岸都市の運命は!?

海上保安庁は、第十雄洋丸を千葉県の富津沖に移動させる決断を下した。
富津沖は、海底がやわらかい砂で船へのショックが少なかった。
そこで、横須賀に流されている第十雄洋丸を富津の北の沖合5キロほどの場所に移動させて、座礁させることを考えたのだ。
しかし、第十雄洋丸を移動させるとなると、民間のタグボート会社に協力してもらう必要があった。
タンカーのような大型船は、港が近づき速度を落とすと舵が効きづらくなり、自力で着岸することが難しい。
そのため、大きな港にはロープで引っ張ったり、船体を直接押したりして離着岸を助けるタグボートという船が常駐している。
海上保安庁は専用のタグボートを所有していないため、タンカーを移動させるためには民間のタグボート会社の協力が必要だった。
しかし、船を引っ張るためのロープを取り付けるには、炎上している第十雄洋丸に乗り込んで作業を行わなければならなかった。
錨を降ろすより短時間で済むとはいえ…危険な作業、引き受けてくれるところはあるのか?

海上保安庁は、無線で協力してくれるタグボートがいないか呼びかけた。
消防活動も出来るため、既に現場にかけつけていたタグボート・大安丸にも無線が入った。
だが、現場で陣頭指揮をとっていた会社の専務は、船員に危険な仕事はさせられないと、即座に反対した。
流され始めてからおよそ1時間半、風向きは変わることなく、炎上する第十雄洋丸は、ついに横須賀港からあと2キロの距離に迫ろうとしていた。
タイムリミットまで、あと30分!

大安丸の船長・下徳辺(しもとくべ)は、移動作業に協力させて欲しいと訴えた。
海の男として、このまま放っておくことはできなかったのだ。
そして、下徳辺船長は第十雄洋丸の後方に近づくと、思いがけない行動をとった。
素手で、第十雄洋丸に触れたのだ!
すると…熱くなかった!

爆発がはじまったのは、衝突した船の先端。
もし船内に火がまわり、後方まで熱くなっていたら万事休すだったが、火は最後部までまわっていなかったのだ!
ここからなら、乗り込んでロープをかけることができる。
下徳辺船長は早速、第十雄洋丸に乗り込む準備を始めた。
すると、若い船員たちが作業を買って出た!    
彼らは、あっという間に炎上するタンカーの船尾に乗り込んだ。
そして、すばやくロープの取り付け作業を行うと、わずか2分ほどでタグボートに戻った。

大安丸は、第十雄洋丸の移動を開始した。
向かうは、千葉県富津の沖合5キロ。
時速4キロで慎重に進み、かかる時間はおよそ3時間、少しでも衝撃が加われば爆発する可能性がある。
大安丸の船員たちにとっては、まさに命がけの航行だった。
ところが、引っ張り始めて間もなく…巨大なタンカーを大安丸1隻で引っ張っていたためなのか、ロープに負荷がかかり、切れてしまったのだ。
再び横須賀方面に流されはじめた第十雄洋丸は、すぐに元の位置まで戻ってしまった。
それどころか…横須賀まで2キロを切り1.8キロまで迫っていたのだ!    
この場所で爆発してしまえば、沿岸都市を巻き込むことは確実!       
横須賀の壊滅は間近だった。

その時、大安丸のところに、同じ会社のタグボート・大成丸から協力するという無線がはいった。
こうして、大安丸と大成丸の乗組員たちは、再び第十雄洋丸の後方から甲板へ駆け上がり、ロープの取り付け作業を行った。
そして今度は、大安丸と大成丸が連携して、炎上する第十雄洋丸を引っ張った。
この時点で横須賀まで1.8キロ…爆発したらタグボートは一瞬で猛火に包まれ、横須賀は壊滅の危機に瀕する。
富津沖まで一瞬たりとも気を抜くことは許されない。
はたして、無事移動できるのか?!

事故発生から10時間後…午後11時50分、富津沖5キロに第十雄洋丸を座礁させることに成功。
この決死の作業は、当時大きく報道され、讃えられた。
だが実は、大安丸の下徳辺船長は後にこの行動について、船員たちを危険な目にあわせるべきではなかったと、自責の念にかられたという。
だが、彼らの行動が未曾有の被害を防いだことは、紛れもない事実だった。

今回の事故、一体なぜ2隻は衝突してしまったのか?
海には船が通るための航路と言われる道がある。
この事故の場合、タンカーは中ノ瀬航路を通っていた。
そして、海上では2隻の船が衝突の恐れがある場合、航路の船が優先されるという決まりがある。
しかし、タンカーが通っていたのは、ちょうど航路の終わり付近だったため、貨物船はタンカーが航路を出たと思っていた。
航路ではない場合、右側の船が優先となるため、貨物船は自分たちが優先されると思っていた。
航路の終わりにはブイがあるが、衝突時、雄洋丸は船の先端がブイを100m越えたあたりを航行していたため、認識の違いが生まれたのだ。

千葉県 富津沖に座礁させられた第十雄洋丸。
タンクに積まれたナフサは、主に石油化学製品の原料として使われているガソリンのようなもの。
火の勢いは収まっていたが…いつ大爆発が起こるかわからない危険な状況だった。
さらに、海洋環境の汚染を恐れ、富津市長と地元の漁業協同組合は、海上保安庁長官に第十雄洋丸を移動するよう直談判を行っていた。
そこで、海上保安庁は対策を練るため、専門家に意見を求めた。
専門家は、「このまま ナフサや液化石油ガスが燃え続けた場合、熱で船体がもろくなり、タンクに亀裂が入ることが考えられますね。なるべく早く湾の外に出した方がいい。」と結論づけた。

事故発生から11日目、海上保安庁は、民間会社3社の協力を得て、前方に2隻、後方に4隻、合計6隻のタグボートでタンカーを東京湾の外へ移動させる作業を開始した。
移動先は房総半島野島崎沖合いの海上、およそ100キロの地点とされた。
たとえ大爆発が起きても、沿岸への被害もなく、船舶の航行にも大きな影響はないとの判断からだった。
時速7.4キロのスピード…船体にショックを与えないよう、慎重に引っ張っていった。

ところが…第十雄洋丸は2度に渡り爆発!
波に揺られたことで船体がきしんだため、熱で弱っていたタンクに亀裂が入り、ナフサが洩れたと考えられた。
第十雄洋丸は高さ30メートルの炎を吹き出しながら炎上。
極めて危険な状況になったため、引っ張っていたロープはすべて切り離された。
漂流をはじめたのは、房総半島の野島崎沖南南東35キロ。
波に揉まれ、爆発、炎上する第十雄洋丸は、再び、手のつけられないモンスターと化してしまった。

しかも、残されたナフサと液化石油ガスは、少なくとも半年間は燃えつづけると予測された。
このまま漂流し続ければ、付近を航行する船への影響はもちろん、日本の沿岸どころか海外の沿岸に流れつく可能性もある。
国際問題に発展する恐れもあった。
海上保安庁は、第十雄洋丸を沈没させることを決断した。

海上保安庁からの要請で、国の防衛を担う自衛隊が出動する事態となった。
そして、潜水艦の魚雷によって撃沈するという衝撃的な報道が駆け巡った。
訓練以外で実際の魚雷を使用するのは、自衛隊史上初のことだった。
だが、事態はさらに驚くべき展開をみせる!
自衛隊は、潜水艦だけでなく、大砲を装備した護衛艦、さらに 潜水艦を攻撃するための航空機も派遣すると発表。
大げさすぎるのではないかと批判するメディアもいたが、現実は、国民の想像を遥かに越えるほど深刻だった。

出動命令が出た直後、自衛隊はどこを攻撃すれば効果的なのか、その構造を調べた。
第十雄洋丸の内部は、いくつもの独立したタンクに分かれていた。
そこに積まれていたナフサや液化石油ガスは、海水より軽く浮力が大きかったため、タンクに穴を開け、燃やすなどして排出しなければ沈めることはできなかった。
ところが、船体やタンクは鋼の2倍の強度を持つ特殊な金属で作られ、更に中央の液化石油ガスは三重の壁で守られていたのだ。
当初考えていた魚雷だけでは、太刀打ちできないことが判明。
そこで自衛隊は『ある作戦』をもって撃沈に臨むことにした。


1974年11月27日。
数日間の準備期間を経て、ついに第十雄洋丸撃沈作戦決行の日がやってきた!
房総沖に出たあと、第十雄洋丸は海流に乗り、作戦当日には遥か470キロの沖合を漂流していた。
ここで沈没させなければ、海外に流れ着く可能性もある。
正午すぎ、現場に4隻の護衛艦が到着。
第十雄洋丸から1500メートルほど離れたところにスタンバイした。

そして、およそ1時間にわたり偵察を行ったのち、ついに…砲撃が開始された。
4隻の護衛艦は、まず 雄洋丸の右側に砲撃を開始、36発を撃ち込んだ。
さらに、第十雄洋丸の左側に回り込むと、同様に36発を撃ち込んだ。
第十雄洋丸は左右のタンクから大量のナフサを流出、激しい炎に包まれた。
しかし…黒煙と激しい炎の中…第十雄洋丸は再び姿を現した!

だが、護衛艦からの砲撃は作戦の一部でしかなかった。
合計 2日間にわたって爆撃を行うという、第十雄洋丸撃沈作戦の全貌はこうだ。
まず、護衛艦で第十雄洋丸の左右の側面を砲撃、ナフサを流出させ燃やす。
そして翌日、ナフサがある程度燃えたところを上空から爆撃。
タンカー中央部、液化石油ガスのタンクに穴を開け、燃焼させる。
船の側面は強固だが、甲板ごしなら破壊しやすいのでは、という狙いからだった。
そして、浮力が落ちたところで…最後に切り札の潜水艦を投入。
魚雷で第十雄洋丸を攻撃し撃沈するというものだった。

作戦2日目、午前9時。
航空機と潜水艦が現場に到着した。
そして、上空から爆撃…16発の爆弾が第十雄洋丸の甲板を直撃した。
作戦はついに最終段階に入った。
潜水艦『なるしお』は、炎上するタンカーから1500メートルの位置で照準を合わせると…魚雷を発射!
なるしおは2発の魚雷を命中させた!
第十雄洋丸は、ナフサと液化石油ガスを流出させながら、激しく燃え上がった!

だが、第十雄洋丸は魚雷を2発 撃ち込まれながらも、全く沈む様子を見せなかった。
自衛隊が想像した以上の怪物。
作戦に参加した隊員たちは、呆然と見つめるしかなかった。
そこで自衛隊は、エンジンルームに艦砲射撃を行うことにした。
タンカーの後方には、エンジンルームがあり、そこは密閉されたような作りになっていた。
そのため、浮き袋のような状態になっていると睨み、穴を開けて破壊することにした。

作戦2日目、午後3時。
護衛艦は、タンカー船尾のエンジンルームに対して、集中的に砲撃を加えた。
そして、エンジンルームへの集中砲撃の3時間後…第十雄洋丸、沈没。
第十雄洋丸が積んでいたナフサと液化石油ガスは、自衛隊の攻撃によって、海上に大量に流出した。
だが、2日間の攻撃の間、激しく燃焼を続けたことから、その後、数時間で燃え尽きた。
危険物を運ぶ第十雄洋丸は、安全性を最大限に高めるために、きわめて頑丈な構造になっていた。
いわば、タンカーとしての素晴らしさが沈没を阻んだのだ。
だが、ついに6000メートルの海底に深く没した。
衝突事故から19日後の1974年11月28日…こうして未曾有の危機は去ったのである。


自衛隊による撃沈作戦によって太平洋に沈められた第十雄洋丸。
手におえない怪物と化した巨大タンカーが沈んだ時、作戦に関わった人々は何を思ったのだろうか?
当時、撃沈作戦に参加した潜水艦『なるしお』の機関士であり、その後、陸海空自衛官の最高位者である統合幕僚長をつとめた齋藤隆さん。
彼は第十雄洋丸が沈んだときのことをこう振り返る。
「それなりによかったねという一つ安堵感…また今度、これが複雑で、そうは言ってもなんか悲しいな。船が沈んでいくっていうのは…悲しいな…複雑な気持ち、『よかったよかった』という気持ちじゃなかった。」

作戦直後、自衛艦隊司令官の中村悌次(なかむらていじ)さんも、取材にこう答えていた。
「船を沈めるというのは、戦争は別として、同じ船乗り仲間として大変つらいですね。設計した人、住んでいた人の思いがこもった生きものですから。」

海上自衛隊50年誌の中には、雄洋丸が沈んでいく時の状況がこう綴られている。
『どの艦からも「悲しみの譜」がじょうじょうとラッパに乗って暗闇に流れ、汽笛 長一声(ちょういっせい)が夜空にこだました。』

第十雄洋丸は、元々は日本の経済を支えるために作られ、活躍していた船だった。
人間の不注意によって、事故を起こし、手におえない怪物と化してしまったが…それを教訓として、次に活かしていくのもまた人間である。
事故の2年3ヵ月後、横須賀の観音崎に設置された『東京海上交通センター』。
24時間体制で、東京湾に関する船舶の交通情報を発信するとともに、安全に航行できるよう、空港の管制塔のような役目を果たしている。

また、第十雄洋丸の事故の翌年、『特殊救難隊』が設置された。
万が一、大規模な海難事故が起こってしまった時、迅速に人命救助や事故対応を行う、海上保安庁のスペシャリスト集団である。
そう、あの『海猿』の主人公が最終的に所属していたのがこの特殊救難隊だ。
特殊救難隊は、要請があれば、羽田航空基地から全国に飛び立ち、救助活動にあたっている。
第十雄洋丸の事故からおよそ20年後に起こったタンカーの火災事故。
漂流するタンカーを沈没させるための作業に、特殊救難隊は大きな役割を果たした。
東京湾で起こった第十雄洋丸の事故の教訓は、現在も脈々と受け継がれている。


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