孤高の改革者

東京オリンピックで、日本選手団の団長をつとめた、大島鎌吉。
彼は、オリンピック開幕の2年前、選手強化対策の重責を一身に背負っていた。

そんな男が、世紀の祭典を前に、驚くべき宣言をする。
「日本の金メダルの目標は 15個以上です」
過去の日本の金メダル最多獲得数は7個。
大島は倍以上を宣言したのだ。
この無謀とも思える発言の背後には、彼の東京オリンピックに対する強い願いが込められていた。

大島は、戦前、陸上の三段跳びで活躍した名選手だった。
1932年のロサンゼルス大会で初めてオリンピックに出場、銅メダルを獲得した彼は、帰国後、オリンピックについて報告を行っていたのだが…
そこで大島は、自らのメダルについて一切触れることはなかった。
その代わりに報告していたのは、大会期間中、彼が最も感銘を受けたモノだった。

それは…ロサンゼルス大会のメイン会場で、電光掲示板に映し出された言葉だった。
『オリンピックにおいて、重要なことは勝つことではなく参加することである。』
近代オリピックの創始者であるフランスの貴族、ピエール・ド・クーベルタンが掲げたオリンピックの理念だった。

そもそもオリンピックの起源は、今から2500年以上前から、古代ギリシャで行われていた、『オリンピア祭典競技』に遡る。
それは開催期間中、戦争などすべての争いごとが休止となるほど、当時の人々にとって神聖なものだった。
のちにローマが、古代ギリシャを征服、祭典は終焉を迎える。

それから1500年あまり、ドイツとの戦争によりクーベルタンの母国フランスでは、多くの若者が命を落としていた。
その現実に心痛めたクーベルタンは、『平和の祭典』としてのオリンピックの精神に価値を見出す。
スポーツで健全な心と体を育成し、世界中の人々が交流できれば、平和な世の中を実現出来るかも知れない。
そんな願いを込めて1896年、近代オリンピックを創始し、現在に至っている。

しかし復活から40年、大島が2度目のオリンピック出場を果たしたベルリン大会。
クーベルタンの理想は危機に瀕していた。
平和の祭典が、ナチス・ドイツによって、国威発揚という歪んだ目的に利用されたのだ。

さらに…当時、日本は朝鮮半島を植民地にしていたため、朝鮮出身の選手もまた、日本代表として参加していた。
一緒に入場行進をする必要があったのだが…それを拒否する日本人選手がいたのだ。
行進の隊列を、背の低い順番にした結果、朝鮮人の選手が前になった事に、その日本人選手は、我慢できなかったのだ。
その日本人選手に向かって、大島はこう言った。
「ふざけた事を言うんじゃない。オリンピックは平和の祭典だ。朝鮮人も日本人も、それに軍人も同じ人間ではないか。不満ならば 行進しなくてもよい!」

しかし、大島の思いもむなしく、その後もオリンピックの理念は軽んじられていき…
1938年、日本は2年前に開催が決まっていた東京オリンピックの返上を決断する。
日中戦争の激化がその理由だった。

翌年、第二次世界大戦が勃発。
大学卒業後、新聞記者になった大島は、大戦中、ヨーロッパの戦地を取材。
そこでかつてスポーツで競い合った仲間たちが、次々と命を落としていくのを目の当たりにする。
そして、日本は敗戦。国民は絶望の淵に沈んだ。

それから4年の月日が流れた頃…フジヤマのトビウオと呼ばれたあの古橋廣之進が、驚異的な世界記録で、アメリカの選手に圧勝!
敗戦で打ちひしがれていた日本に希望と勇気を与えた。

そして、復興へと歩み始めた日本は、幻に終わった東京オリンピック復活に向け、盛り上がっていく。

そして、IOCの総会で、開催地を決定する投票が行われるまで、あと半年と迫ったころ…とんでもないスキャンダルが発覚する!
オリンピックの招致活動を行っていた、日本体育協会が設立した団体が、横領事件を起こしたのだ。

事務局員が、高級料亭などで使い込んだ不適切な出費が、およそ1千万円あることが発覚、国会でも問題になった。
結果、体育協会も責任を取らされる形となり、招致に関わっていたメンバーたちが総辞職を余儀なくされた。

大島は新聞記者として、この一件を追及する一方で思いがけない行動に出る。
日本の再出発のために力を貸して欲しいと、オリンピックのメダリストたちに声を掛けた。

オリンピックを巡る汚職事件によって、海外からの日本に対する信頼は損なわれていた。
そこで、メダリストたちに、海外スポーツ界の実力者に宛て手紙を書いてもらい、日本の名誉を挽回しようとしたのだ。

大島には、是が非でも日本でのオリンピック開催を実現したい理由があった。
実は、彼は戦後まもなく、日本の子供たち向けに『オリンピック物語』という本を出版していた。
未来の平和の担い手である彼らに、クーベルタンがオリンピックに込めた意味について、わかりやすく伝えようとしていたのだ。

もし東京オリンピックが実現すれば、かけがえのない体験を子供たちにしてもらうことができるはず。
だからこそ、全力で招致活動のサポートをしたのだ。

さらに、体育協会からの依頼で、難航していた東ヨーロッパ諸国への招致活動に着手。
およそ1ヵ月をかけて東ヨーロッパ諸国を回った。
自筆のノートには、その様子が克明に記されている。
こうした活動もあり…ついに日本でのオリンピック開催が決定した。
そして…東京招致への多大な功績が認められ、選手強化対策本部 副本部長に就任、選手強化の全てを任されることとなった。

ところが選手強化が本格化すると、大島は周囲を混乱に陥れた。
大島は、大学の医学部や理学部の協力を得て、科学的な練習を推進したのだ。
当時の日本のスポーツ界は、根性論、精神論が主流。
当然、周りの人は知識もなく、戸惑うばかりだった。
さらに…ヨーロッパなどから著名なコーチや学者たちを次々と招いた。

だが、彼が力を入れたのは、科学的トレーニングだけではなかった。
大島は海外から著名な哲学者を呼ぼうとした。
ただ強ければよいのではない。
オリンピックに相応しい選手を育てたかった。
その後も自らが理想とするオリンピック実現に向け、考え得る限りの改革を行った。
聖火リレーのランナーが、若者たちから優先的に選ばれる事になったのも、その1つだった。

そして、東京開催を10ヶ月後に控えた頃、マスコミを前に驚くべき発言をする。
「日本の金メダルの目標は…15個以上です。」

誰もが耳を疑った。
しかし、もちろん何の根拠もなしに発言したわけではない。
大島は、毎年のように世界各地を視察し、各国のスポーツ事情や国際大会の記録などを詳細に分析していた。
その結果が金メダル15個以上という数字だったのだ。
自らが取り入れた科学的トレーニングをはじめとする強化策によって、日本人選手たちは飛躍的に実力を身につけていたのである。

とはいえ、オリンピックは特別な舞台であり、日頃の実力が出せるとは限らない。
しかしそれでも、あえて かつてない金メダルの数を提示したのは、大島のある願いからだった。

大島は、練習中のコーチや選手に常日頃、こう言っていたという。
「何より大切な事は、オリンピック開催国の責任として、日本の選手が決勝まで残って戦い、世界から参加して来る選手をもてなす事だ。予選で落ちる事は非礼である。」

日本の選手たちが決勝まで残り、正々堂々と戦った結果が金メダルにつながる。
全力を尽くして戦い、その結果、お互いを認め合う、それこそが友情を育み、平和へとつながっていく。
平和の祭典、オリンピックの理念がそこにはあった。

そして、開幕した東京オリンピック。
日本の選手たちは全力で戦った。
柔道軽量級の中谷 雄英選手は、プレッシャーをはねのけ、持てる力を出し切った。
多彩な技を次々と繰り出し、柔道競技初の金メダリストとなった。

中量級に登場したのは昭和の三四郎と称された岡野 功選手。
鮮やかな立ち技と寝技を駆使し、金メダルを獲得した。

重量挙げ フェザー級の三宅 義信選手は、前回のローマ大会では銀メダルだった。
だが、東京オリンピックでは見事に金メダルを獲得、しかも世界記録だった。
実は、三宅選手の姪っ子もその後、女子重量挙げの選手として活躍…そうあの三宅宏美選手だ。

体操男子の面々も躍動した。
『山下跳び』で知られていた山下治広選手は、さらにひねりを加えた『新・山下跳び』を披露。
種目別の跳馬と男子団体で金メダルに輝いた。

遠藤幸雄選手は、種目別の平行棒と団体の他、個人総合でも金メダルを獲得。
日本人がオリンピックで個人総合優勝を果たすのは、初めてのことだった。

そして東洋の魔女と呼ばれた女子バレーチームは…宿敵ソ連との戦いに勝利した。
こうして日本の選手たちは…16個の金メダルを獲得した。
オリンピックの理想を実現したいという大島の思いは、日本に史上最多の金メダルをもたらしたのだ!

だが、これで浮かれることはなかった。
東京オリンピックで日本は、アメリカ、ソ連に次ぎ、金メダルの数で3位となったが、大島は次のような分析もしていた。
金メダルを4個以上獲得した国で、金銀銅、3つのメダルの合計数を比較すると日本は第4位となる。

ところが、それぞれの国の人口との割合で比較してみると、上位10カ国のうちの最下位だったのだ。
つまり、大島からすれば、日本はまだまだスポーツの裾野が広がっておらず、スポーツ先進国とはいえなかった。
大島は、東京オリンピックの年を日本のスポーツ元年と位置づけ、平和のためのスポーツが日本中に広がり根付いていくことを願い続けた。

そんな彼が晩年、日本オリンピック委員会に対し強く抗議したことがあった。
1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、日本がモスクワオリンピックへのボイコットを決めたことに対してだった。
大島は大会に参加すべきだと、先頭に立って強く主張した。
紛争が起こっているときだからこそ、オリンピックという平和の祭典で選手たちが交流することを阻害すべきではない。
平和への道を歩むために、ボイコットはすべきではないと…

大島は死ぬまで、平和の祭典の理念を実現しようと情熱を注ぎ、そして1985年に76歳でこの世を去った。
彼の思いを象徴する光景がある…東京オリンピックの閉会式で信じられない出来事があった。
参加国の国旗が次々と登場したあと、通例では開会式のように国別に整然と登場するのだが…世界中の国々の選手たちが、入り乱れて登場した…それはまさに奇跡の瞬間だった!

大島は後日、この閉会式についてこう述べている。
『世界平和のためにオリンピックが必要だというのは、ああいうことなんだよ』


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