宇宙中継を実現せよ

海外のスポーツを中継で楽しむ、今や当たり前の光景だが…
実はスポーツ中継の歴史で、最初に海を越え世界に向けて発信されたのが、東京オリンピックだったことはあまり知られていない。
その成功の陰には、信念を持ち続けた1人の日本人と国境や立場を超え1つになった、男達の努力があった。

スポーツ中継の歴史は古く、1932年のベルリンオリンピックで行われたのが世界で最初だと言われている。
やがて技術は進歩し、東京オリンピックの4年前に行われたローマオリンピックでは、パラボラアンテナでテレビ信号を送受信、ヨーロッパ各国とソ連では、大会の様子を中継で観ることが出来た。
そのため、4年後に開かれる東京オリンピックでも世界に向けた中継をという声はあったが、そこには大きな問題があった。

実は、電波を飛ばすためには一定の距離ごとにいくつものアンテナを設置する必要があり、陸続きの場所でしか中継を行うことができなかったのだ。
したがって海に囲まれた島国である日本から、海外まで電波を飛ばすことは不可能だった。

事実ローマ大会の時も、日本では撮影した映像を飛行機で空輸。
テレビに鮮明な映像が流れたのは、すでに速報の出るラジオなどで結果がわかってしまった後のこと。
その感動をリアルタイムで味わうことは出来なかった。

そのため、日本の通信関係者もなんとか中継を実現させるべく、知恵を絞ってはいたのだが…やはり中継は不可能だと思われていた。
しかし、そんな中…宇宙に衛星を浮かべれば、世界への中継は成功すると考えていた男がいた。
半世紀以上も前に、遙か宇宙を視野に入れた男、その名は…上田弘之。
郵政省(現在の総務省)「電波研究所」の所長、電波や通信に関する日本のスペシャリストだ。

実は、中継に衛星を使うという構想自体は、すでにNASAを中心に研究が進められていた。
東京オリンピック前年には、日本最初の通信衛星実験を実施。
奇しくも、ケネディ大統領暗殺のショッキングなニュースが、深夜の日本で中継されたという実績もあった。

しかし、その方法でオリンピック中継を行うことは事実上不可能だった。
当時の人工衛星は、自転よりも早く地球の周りを回る、周回衛星と呼ばれるもの。
中継を行うには送信側と受信側両方の地上局から、衛星が同時に見える位置にある必要がある。
だが周回衛星は、およそ3時間で地球を一周してしまうため、結局、数時間おきに20分程度しか送受信することができず、スポーツの中継には全く不向きだったのだ。

それでも、上田は諦めず、NASAの研究者を捕まえては話を聞いた。
そして、NASAの研究者から、静止衛星の実験が行われたことは知っているかと聞かれた。

静止衛星とは、地球の自転に速度を合わせて周回する衛星のこと。
地球から見て、衛星が常に同じ位置にあるため、24時間中継を繋ぐことができる。
さらに、静止衛星の軌道は周回衛星よりも高度が高く、より広い範囲をカバーすることができる。

しかし、静止衛星を軌道に乗せるためには、高度3万6千kmの高さまで打ち上げる必要があり、それが当時の技術では至難の業とされていた。
事実、1963年2月、NASAは静止衛星「シンコム1号」を打ち上げたのだが、実験は失敗したと報じられていた。

だが、すぐに新しい衛星を打ち上げる計画があるというのだ。
上田は真意を探るべく、開発したヒューズ社に足を運んだ。
すると、通信機の故障によって、通信実験こそ出来なかったものの、一番難関とされていた、静止衛星に必要な高度に到達できていたというのだ。
つまり…実験は失敗してはいなかったのだ!

そして…第1号の打ち上げから、5ヶ月後。
改良されたシンコム2号によって、人類は世界で初めて静止通信衛星の打ち上げに成功した。

ただ、NASAがすでに設置していた通信用アンテナは日本の裏側にあった。
その関係でシンコム2号が打ち上げられた位置は、日本からは死角になってしまい、この衛星をそのまま中継に使うことはできなかった。

だが、計画が進み、次の3号が日本でも使える位置に打ち上げられれば、オリンピックの宇宙中継ができると、上田は確信。
早速、NASAに協力を依頼したのだが…なぜかNASAのシンコム打ち上げ責任者は、宇宙中継に難色を示したのだ。

実は、静止衛星は高い高度に打ち上げるため、重量を軽くする必要があり、衛星自体にはシンプルな機能しか搭載することができなかった。
したがって、情報量の多い映像を送受信することは、ほとんど考慮されていなかったのだ。

それでも東京オリンピックの7ヶ月前、シンコム2号を用い、研究者のみで映像中継実験が行われた。
そこに上田も参加したのだが、映し出された映像はノイズが多く、とてもスポーツを楽しめるようなものではなかった。
だが、上田はまだ諦めていなかった。

実は上田には、どうしても宇宙中継を実現させなければならない理由があった。
終戦の時、日本は何もかも失った。
しかし、それから20年足らずで、日本はここまで復興し、ついにオリンピックを開けるようになった。
だが、世界を見てみると…東西冷戦で心は荒み、明日を夢見ることもできない人々がたくさんいる。
だからこそ、平和の祭典であるオリンピックが平和国家であるこの日本で開かれる時にそれを外に向かって発信することは、絶対に大きな意味があると考えていたのだ。

散々な結果に終わったあの実験からわずか1ヶ月後には技術者だけでなく、放送関係者など、多くの人が参加する公開テストが控えていた。
そこでも前回同様、映像実験が行われることになっていたのだが、最終的に中継を放送するのはテレビ局。
もしそこで彼らに難しいと判断されてしまえば、東京オリンピックの宇宙中継は実現不可能になってしまう。

つまり、この1ヶ月が勝負だった。
そこで上田は、NHK放送技術研究所の野村に、小さなデータにしても鮮明な映像を送れる「画像圧縮装置」の開発を急ぐよう依頼した。
だが、その技術はアメリカでもまだ完成していない技術…間に合うかどうか分からなかった。

しかも上田には、さらにもう一つ、解決しなければならない大きな問題があった。
その問題を解決するために連絡をとったのは、NECの通信機事業部。

実は、そもそも次の3号が日本をカバーできる位置に打ち上げられたとしても、日本にはまだ映像を送信するために使う、静止衛星用の大型で高性能のアンテナがなかった。
至急作り始めなければならなかったのだが…NASAは未だ首を縦に振らず、まだ宇宙中継は決定しているわけではないため、予算が出ないのだ。
しかも、宇宙中継を可能にするアンテナを立てるには、1億円(現在の貨幣価値で4億円以上)かかるという。

NECの担当者は…「私の一存ではなんとも。社に戻って検討するとしか…すみません」と答えるのが精一杯だった。
無茶を言っているのは上田自身が誰よりも一番よくわかっていた。
だが、どうしても諦めきれない上田は、その後も関係各所を周り、宇宙中継を実現するために奔走した。

そして…ついに公開テスト当日を迎えた。
この公開テストではシンコム2号を使い、前回と同じくサンプル映像で宇宙中継の模擬試験が行われた。
だが…前回のテストからNASAも地上でできる映像転送技術の改良を進めてはいたものの、依然として、とてもスポーツを楽しめるレベルのものではないと思われた。

ところが上田は、これなら宇宙中継ができると確信した。
そして、ある資料を提出。
実は…上田はNHKが研究していた映像を改善するための理論を、職員と共に徹夜でレポートにまとめ、この日までに完成させていた。
そして、その技術を使えば、宇宙中継は可能だと断言した。
ついに、これまで頑なに反対していたNASAの首を縦に振らせることができた!

しかし、もちろんまだ大きな問題が残っていた。
オリンピックまで既に半年を切っていた。
今からではアンテナの設置工事が間に合わない可能性もあったのだ。

ところが…アンテナ設置の作業はすでに開始しているという!
実は…あの時は、即答できなかったNECだったが…オリンピックにかける想いは彼らも同じ。
なんと予算が出る前から1億円のリスクを背負って、すでに動き出していたのだ!

そして、オリンピックまで2ヶ月を切った8月19日。
NASAは約束通り、シンコム3号を日本でも使える位置に打ち上げた。
そして、その月の下旬、NECも送信アンテナの設置工事を完了させた。

最後の最後まで試行錯誤を繰り返していた、NHKの画像圧縮装置が完成したのは…10月6日。
開会式の4日前だった!

こうして迎えた、10月10日午後2時。
NASAが打ち上げた、シンコム3号を通じて、開会式の映像はアメリカ・カナダ、北米大陸全域に宇宙中継され、ヨーロッパでもわずか数時間遅れで放送された。
オリンピック宇宙中継は、多くの国から賞賛が寄せられ、大成功を収めたのだ。

もちろん、この技術を生んだのは、NASAが打ち上げた衛星、NHKの画像装置、NECのアンテナではあった。
しかし、信念を曲げず駆け回り、関係者を説得して回った上田がいなければ、世界初のスポーツ宇宙中継は、間違いなく実現していなかったのである。

上田はのちにこう語っている。
「どうしてもやりたいんだと、信念に似たような希望といいますか…どうしてもやり抜くという気持ちが、すべての難問を突破させたんだと思います。」


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