国旗の準備に奔走した男たち

東京オリンピック開催まであと2年となった頃、ある問題が持ち上がっていた。
実は4年前、日本で開催されたアジア競技大会の表彰式で…中華民国(現在の台湾)の国旗を逆さまに掲揚、内外から大きな非難をあびていたのだ。
もし、オリンピックの表彰式で同じことが起こったら、外交問題になりかねない、失敗は許されなかった。
だが、それは簡単なことではなかった。

開幕2年前のこの時、東京オリンピックに参加を予定していた国と地域は108。
その国旗の形や比率は千差万別。
だが、オリンピック憲章には平等を期すため『各国旗を同じサイズにすること』という規定がある。

それぞれ比率の違う国旗を同じサイズに統一しようとすると、バランスが崩れてしまうのだ。
さらに国旗の色やデザインは、その国の文化や歴史、民族の誇りを象徴しているため、細心の注意を払う必要があった。
事実、過去のオリンピックでは逆さだったり、裏返しだったり、などミスなどが頻発。

そこで…担当者である森西は各所に連絡、日本で一番国旗に詳しい専門家をあたった。
外務省や日本ユネスコ協会連盟から推薦されたのが…吹浦忠正。秋田出身で早稲田大学在学。
まだ20歳の学生だった!

森西は、学生である吹浦に任せても良いものか、不安に感じたため、一度 面接を行うことにした。
そこで吹浦は、様々な専門的な質問にもよどみなく答えてみせた。
オリンピック東京大会組織委員会は、東京オリンピックの国旗を準備する責任者に吹浦を任命した!
こうして、2年後の東京オリンピックに向け、国旗の準備全てを弱冠20歳の学生が担うことになったのだ!


それにしても一体なぜ、彼はここまで国旗に詳しかったのか?
実は…吹浦は子供の頃、大腸カタルという病気で自宅で長い療養生活を送っていた。
そんな少年にとって、たった1つの心の癒やし、それが各国の国旗があしらわれた世界地図だった。
国旗を見て広い世界の国々に思いを馳せる時だけ、辛い現実を忘れられた。
病気がちでスポーツも苦手、何の取り柄もない少年に自信を与え、人生を変えてくれた。
それが、吹浦にとっての国旗だった。


吹浦は、まず参加国の国旗のデザインを確定させる作業から始めた。
オリンピック憲章で、全ての国旗を同じサイズにするという事は決まっている。
参加国のほとんどが国旗の縦横の比は、縦2:横3である。
かつての大会でも、2:3の前例があった事から、比率は2:3に決定した。

だが、アメリカやイギリスなど、2:3以外の比率を採用する国も数多くある。
例えばイギリスの国旗は、縦横の比が1:2。
単純に2:3に圧縮すると…歪んでしまう。
そこで印象が変わってしまうデザインを、違和感がないように、調整する必要があった。

さらに、問題は色だった。
例えば、一口に緑といっても、その濃淡や色合いは各国によって全く違う。
当時、憲法で国旗について何らかの規定を設けていた国は63カ国。
だが、色の指定まではされていない国が多く、それ以外の国はそもそも国旗の規定が文書化されていなかった。

吹浦たちは専門書を取り寄せると、各国の国旗のデザインを徹底的に研究。
図案をミリ単位で調整した。

3ヶ月をかけ、ようやくデザインが決定。
すぐさま、各国のオリンピック委員会に承認を得るため、108カ国それぞれにサンプルを送った。

だが、もう一つ大きな問題があった。
国旗に使う生地の選定だ。
東京オリンピックで必要とされる国旗は、開会式の入場行進で使われる旗、各会場周辺に掲げられる旗、表彰式で掲揚される旗の3種類。
合わせて、実に3000枚以上。

特に会場用の国旗は、オリンピックの会期中、上空ではためき風雨にさらされる。
過去の大会では色あせたり破れたりするケースが多かった。
逆に、屋内で使用される旗には、それほど耐久性は必要ない。
だが、生地が違うと染料の発色が違ってくるため、いちいち染め方を変える必要があり、コストがかさむ。
どうしても、一つの素材に統一する必要があった。

そこで吹浦は、旗の製造を行う会社「国際信号旗」の三宅社長に相談した。
三宅社長によれば、ウールは色あせはしないが、破れやすい。
ナイロンは、逆に破れにくいが、色あせしやすい。

そこで、エクスランという新素材も候補に上がった。
エクスランとは、アクリル製の化学繊維。
ウールの質感を持ち、しかも丈夫と言われる新素材だった。
ただ、新素材なだけに実績が何もなかった。

そこで…ウールとナイロン、新素材の3種類でサンプルを作成。
15日間に渡り、屋外で掲揚するテストを実施したのだ。
すると…9日目にウールが切れ、11日目には台風のような大雨が降って、ナイロンの染めが流れてしまった。
オリンピックは15日間あることから、新素材のエクスランを使用することに決まった。

だがこれが、さらなる難題をもたらす。
エクスランは新素材のため、どうしても高くつき、予算をオーバーしてしまったのだ。

さらに…吹浦の出した見積もりは当初より1000枚以上多い、4000枚分にも及んでいた。
各競技の表彰式では、金銀銅のメダルを獲得した選手に対してのみ国旗が掲揚される。
これまでは、競技ごとに、過去のタイムなどから順位を予想。
メダル獲得の可能性がある上位10人ほどの選手の国旗しか各競技場に用意しないのが普通だった。
だが、吹浦は成績に関係なく、出場する全ての選手分の国旗を競技場ごとに用意しようとしていたのだ。

なぜなら…前回、1960年のローマ大会、男子マラソンで起きたことを危惧していたからだった。
当時この競技は、イギリスやアメリカの選手が強く、メダルを独占すると予想されていた。
だが裸足で出走した1人のアフリカ人選手が予想外の快走を見せ、金メダルを獲得。
それが、エチオピアのアベベ・ビキラ選手だった。
この時、表彰式会場にエチオピアの国旗は用意されておらず、急遽 他の会場から取り寄せた為、式自体が1時間50分遅れることになった。

どの国の選手もみんな、頂点を目指して必死に努力している。
それなのに、表彰台に上がった時に 国旗が用意されていなかったら…選手はどう思うだろうか?
選手の思いに報いるためにも、吹浦は全ての選手の国旗を用意したかったのだ。

予算の増額を掛け合ってみたのだが…それでも予算は足りず、各会場に全選手の国旗を用意することは諦めるしかないかと思われた。
すると…国際信号旗の三宅社長が自分たちの利益を削って、予算を捻出してくれたのだ!
三宅社長の会社では、戦時中、日の丸や旭日旗を作っていた…そして、兵隊に取られ命を落としていった社員たちもたくさんいたという。
それがオリンピックという平和の祭典のために国旗が作れる…そのためには、利益などいらないと言ってくれたのだ。

オリンピックまですでに残り1年。
4000枚の国旗づくりは急ピッチで進められた。
だが、最大の難関が残っていた。
国旗のデザインにOKを出してくれない国がいくつかあったのだ。

中でも一番難航したのが…アイルランド国旗だった。
アイルランドの旗は、シンプルないわゆる三色旗。緑はケルト民族、カトリックなどアイルランドの古い文化的要素、オレンジはプロテスタントなどの新しい要素を表現。
白は両者の協調を意味していた。

その緑の色味に、なかなか納得してもらえなかったのだ。
ある時は「もっと緑を淡く」、再度送ると「もっと高貴な緑で」。
残り半年…3ヶ月と開会が迫る中、何度やり直しても承認を得られなかった。

アイルランドとのやり取りはすでに7回に及んでいる。
8回目の返事がきた時、開会式は10日後に迫っていた。
アイルランドからの返事は…「素晴らしい、これが我々の緑です」というものだった。

さらに、吹浦は、逆さまに掲揚するミスの防止策も考案。
国旗を掲げるロープの上部に金色、下部には銀色の金具を付け、それと同じ色の金具を旗の上部と下部に装着。
決して逆にならないようにした。
そして4000枚すべての旗をチェックし、各会場へ国旗4000枚の配布が完了したのは、東京オリンピック開会式のわずか3日前だった!

1964年10月10日、ついに東京オリンピックが開幕。
国立競技場に入場する選手たちの手に、国旗が…

三宅社長は、この光景を万感の思いで見つめていた。
それにはもう1つ、理由があった。
実は、戦争に向かう学徒出陣の壮行会もこの場所で行行われていたのだ。

オリンピック会期中、国旗に関するミスは1度も起きなかった。
当時わずか23歳、国旗オタクの青年は完璧に仕事をやり遂げたのだ。

吹浦さんと共にオリンピックを成功に導いた三宅社長、2人はその後も20年近く良きパートナーとして仕事をしたという。
吹浦忠正さんは、東京オリンピックでの経験を活かし、国際赤十字などで難民支援や平和活動に従事。
その一方で世界有数の国旗の専門家として、今にいたるまで活躍を続けている。

吹浦さんにとって、国旗とは何なのかと質問したところ…
「人生の伴侶みたいなものです」と答えてくれた。


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